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小学校の引越し

2012.01.12 13:39 | 家と川崎と私 | 投稿者:布川玲子

 昭和28年6月、川崎市立大師小学校から分校した新設の四谷小学校に引越しをした。6年生は、そのまま残り、1年生から5年生まで500名ほどが列を成して徒歩で、1,5キロほど離れた新学校に向かった。私は3年生だったが、上級生たちは、各自椅子を持たされていた。確か、小雨模様の日だったので大変だったと思う。

 大師小学校は、明治6年6月開校の老舗。明治5年が、学制発布だから、日本でも最古に属する公立小学校の一つであろう。それにつけても明治新政府の義務教育への取り組みは、すばやかったと思う。この大師小学校からは、その後いく校かが分かれていったが、四谷小学校が独立したのは、川崎市の海側地帯の工業化が進み、人口が急増していった頃である。大師小学校在学中の2年生の頃は、教室が足りなくて二部授業が行われていた。遅番は、午後から始まった。午前中家で遊んでいると何かもう学校へ行く気がしなくなってしまった。とにかく大師小学校は、もう限度を超える満杯状態だった。私が入学したときは、1年生は、一クラス55人ぐらいで11クラスあった。

 四谷小学校のクラスメートの半分は、土着住民の子供、半分は、所謂ニューカマーの子供であった。学校の奥向こうには、新築の市営住宅群が建ち並び、右隣は、
「トータン」と地元で呼ばれる「東京鍛工」の工場があった。林立して聳え立つ煙突が、その長い影をいつも校庭に落していた。正門前は、産業道路で、巨大なタイヤを2本づつ履いた10トンだか20トンだかのトラックが、ビュンビュン走っていた。文字通り産業道路である。学区は、この道路の両側にまたがっていたので、私もそうだが、四谷上町側のたぶん半数以上の生徒は、この道路を渡って通学していた。(歩道橋などまだない時代である。)さすがに、登下校時には、おまわりさんや副校長先生が出ていたが、今思うとこんな危険で車の騒音も激しい幹線道路沿いに、よく小学校を建てたものだと思う。

 四谷小学校初代の校長先生が作った校歌第1番は、「雲をも凌ぐ煙突は、四谷の友の姿とて伸びよー伸びよー空高く、500の力だ、その意気だ」と歌っている。よく歌ったので、今でもよく覚えているし、みんな好きな歌だった。まだ、騒音、煤煙、排気ガス等、公害について、工場も、住民も、川崎市も、そして日本中が、無知でのんきな時代であった。こんな状態が、長く許されるはずもなかったが、昭和30年代半ばまで、このような環境の中に川崎市の旧大師河原地域の人々はいたのである。

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